大学卒業後の2014年に入社した東京の某企業。大きな会社で様々な事業を手掛けていましたが、私が配属になったのは工場向けの生産設備の営業でした。文系大学出身の私にとってはそれまで無縁だった世界。自分が対峙するお客様は超一流企業のエリート理系職の方ばかりで、その方達と対等に話せる様にならねばと、営業としての基本的な所作だけではなく、機械工学、電気、加工する材質の特性等、理系の知識習得に向けて必死に食らいつく毎日でした。
毎日の様に遠方に出張に赴き、お客様への営業活動に加えて、多い時には10分に1回かかってくる電話への対応…。パソコンが開けるのは一日の営業活動を終えた後の定時以降、出張先から戻ってきた事務所もしくは宿泊先のホテルでした。一日外出しているとメールボックスには100~200通の未読メールが溜まっており、それらを定時以降に一から捌き始めるという日々でした。しかもそのメールの一通一通が難解な課題のオンパレードで途方も無い時間を要していました。
当時の会社は現在と比べると就業管理が非常に甘く、23時や24時まで仕事に没頭する毎日。終電を逃さぬように駆け足で会社を後にし、自宅の近所にあるファミレスで夕食を取ってから帰宅し就寝は大体午前2時頃、翌日はまだ朝6時頃に起きて出勤するというルーティンでした。月~金までその様に過ごしていてもやるべき事は終わらず、毎週土曜か日曜のどちらかはこっそりと会社に行き残務をこなしていました。上司からは「36協定に引っかかると面倒だから」という理由で毎月の残業時間は45時間以内で申請する様に指示を受けていました。
今の自分から考えると、めちゃくちゃな毎日でした。上司に業務過多を何度も訴えましたが、具体的な改善策は何も施されませんでした。その様な環境がパニック障害を発症させた一番の引き金でしたが、もう一つは自分のプライドによるものだったのかもしれません。
「周りの人より良い営業成績を残したい」、「周りから仕事が出来る人間だと思われたい」、「お客様から認められたい」…そんな承認欲求が強かったなと今になって思います。一方で、どんなに小さなミスでも他人から指摘されると尋常じゃない恥ずかしさと共に自己嫌悪に陥ってしまう傾向にありました。あとは、責任感が人一倍強く、自分の所作によって他人に迷惑をかけないことを常に第一に考えていました。テニスに例えると、自分に向けて打たれたボールはもれなく全て相手に正確に打ち返さなければならない。と思い込んでいて、でもそれが社会人として当たり前のことなんだと当時の自分は理解していました。
そんな感じで3年が経過した2017年頃、自分の行動にある変化が現れるようになりました。仕事を終えて夜中に自宅に帰ってきてからも、「あの時送った見積にミスは無かったかな?」とか「あの時送ったメールに無礼と受け取られそうな表現は無かったかな?」等と突如頭から離れなくなり、寝る前にもう一度パソコンを開いて確認しないと寝付けない日々が続きました。家のカギをかけてきたか、ガスの元栓閉めてきたか等と心配になる感覚と同じような感覚でした。
その症状は次第にエスカレートしていき、自分でも「これは変だ」と思った出来事が有ります。地方に出張に行った際、夜間に営業車を運転していたのですが、突然「今まで走ってきた道のりの中で自分が気付かないうちに何かにぶつかってしまったかも。」という不安感に駆られ、それまで走ってきた同じ道を10kmほど戻って異変が無いかを必死で確認するという謎の行動を取ってしまったのです。(※当然、何も事故等は一切起こしていませんでした。戻った道中にも異変は一切無かったし、車自体に何かにぶつかった様子も一切確認できませんでした。)
また、その謎行動の時から暫くして1つ自分にとっての事件が起きます。前回の記事で私がパニック障害を発症したのは2018年と書きましたが、その前年にそれらしき発作が一度だけ起きたのです。その日は中国出張から夕方頃に帰国し、空港から会社に直行して事務処理を終えた後で夜20時頃に東京から長野県の松本市へ社有車を運転して向かいました。翌日の早朝から重要なお客様への訪問予定が有った為、松本市内のホテルに前泊しようと思い車を走らせました。関越道から上信越道に入り、22時頃に東部湯の丸SAで軽く夕飯を取ってから出発し、長さ4000mほどのトンネルに差し掛かる直前に突然息苦しさと死ぬかもしれないという恐怖心に襲われ、トンネルに入る直前の路肩に停車しました。停車した車内でも苦しみ悶え、いっそこの息苦しさから解放される為に今すぐ車を飛び出して高速道路上で轢かれて死んでしまおうかという衝動に駆られました。しかし寸前で思いとどまり、自分で119番して救急車が到着すると落ち着きを少し取り戻し、パトカーが次のインターまで前後を囲んでくださり高速を降りることができました。
翌朝は何事も無かったかのように元気にお客様に入り、以降はその様な症状が暫く現れることはありませんでした。その出来事がやがて本格的に発症するパニック障害への最後の警告だったと気付くのは翌年のことでした。